妄言録

日々あれこれ考えたことをまとめたりしようかな、と思い始めました。

神なるもの

あらゆる一切の現象、観念、事物を観よ。

あらゆる移り変わりを観て、人間はそこに神なるものを見るのだろう。

しかし、神は此処にいる、というものではなく、また其処にいる、というものではない。

そもそも、人間のいうところの神というような存在は実存の観測すら儘ならない。

正しく、見ずに信じる対象であるのだろう。

或いは、人間に似せた形を与え、その形態に嵌め込んでいるだけに過ぎない。

或いは、それが有するとされる力、意味を象徴的にかけ合わせた偶像に過ぎない。

それらは形態の有無を問わず、その様に望まれて形を取ったものでしかない。

だが、これすら正確ではない。

人間の語る神々とは言うなれば観念である。

ある観念を神として言葉と像と意味とで型に嵌め込んだものでしかない。

そういう意味では、人間の言うところの神は存在しないと言えるだろう。

だが、それは確かに存在性として存在している。

人間が世界を捉えるようにその存在性を世界に、つまりは社会に、自らの内に有する人間において神は存在性として存在している。

それは自らの内に在り、内より生じた存在性である。

種は外から蒔かれたものである場合があるが、芽吹かせたのは自身である。

そうした芽を共有する人間の間にあって、それは絡み合う蔓のように交わり合い、一つの世界を形成する。

必ずしも、それが同一足り得ぬのに、恰も同一であるように相互が思い込む。

そうして絡み合う蔓は大きな塊となり、気が付けばそれが蔓ではなく木であるように見える。

その形は、恰も変化しない、絶対的なもののように見えるだろう。

だが、元が蔓であるそれらは時流の中で構成要素を替え、同じであったことなどない。

恰も、昨日見た雲と似た雲を見たとしても、それは同一の雲ではないように。

絶えず形を変え続けているとは

それらは恰も生じた様に見え、また時流の中で消えた様に見える。

だが、それらは元より生じていない。

また、それらは滅びたことすらない。

それらは大きなうねりである。

或いは、移り変わりである。

生じてすらおらず、滅びることのないそれは、世にあって諸々の形成のうねりでしかない。

人間の観点で言うならば、興亡の様に見える。

だが、それらは大きなうねりの中で形を変えているに過ぎない。

恰も、海で波が生じようと海には何ら変わりがないように。

古き神々も最新の神々も、そうした世界のうねりの中で見せる形態でしかなく、それらは確かに一つのうねりとして形を持って見せることもあるが、根本において同一である。

同一のうねりが様々な名で語られることもある。

或いは、同一のうねりが異なる観点から見て相反しているように見えることがある。

この様に諸々の神仏を観たならば、それらが生じておらず、また滅びてすらいないことの意味を知るだろう。

そうして、人間が神と呼ぶ存在性は此処にいるでもなく、其処にいるでもないことを知る。

それらは存在性として存在する存在であり、何処にでもいて、何処にもいないのだと知る。

こうして、人間の語る神々はこの様に在る、と私は観る。

そうして諸々の事象を観て、私は根底に在るものを神と称した。

されど、私の語る神は存在性ですらなく、定形を持たず、何処にも在り、何処にも在らない存在である。

即ち、世界である。

より正確に言うならば、想像力の外側すら含んだ界である。

諸々の土台となる界。

人間の語る世界は地球という星であり、その地球が太陽系の一つで、その太陽系すら銀河系の一つでしかなく、それら全てを内包した宇宙という塊の土台となる界。

在るということが在るこの界も、無いということが在る界も、無いということすら無い界も、大きな界の内に在るだけでしかない。

過去、無限の智慧を蓄えた仏を虚空蔵と称したように、正しく虚空と称すのが相応しい無際限、無間。

認知の外という意味での虚空が在る。

あらゆるはただ内に在る。

恰も、虚数の中に実数があるようなものである。

身の回りの諸々の事象を観るがいい。

人間の足がついている、不動に思える大地の中を。

大地を有する星の運行を。

天を観るがいい。

其処に星の運行と星の息吹を感じるだろう。

地を観るがいい。

其処に星の脈動と星の息吹を感じるだろう。

私達は何処にも単立出来てはいない。

常に変動し続けている。

意識及ばぬ想像力の外側でも多くが変動する。

意識及ぶ想像力の内側ですら多くが変動する。

そうした根源。

生じず、滅びず、汚れず、清らかにならず、増えもせず、減りもせぬ、根源のうねり、移り変わり。

形態の変化でしかなく、形成の変化でしかない。

私達も含め、只の移り変わりといううねりでしかない。

私はこれを「神」と称した。

或いは「宇宙」。

或いは「真理」。

或いは「全」。

或いは「無」。

或いは「一」。

或いは「多」。

或いは「個」。

或いは「群」。

それは私達自身でもある。

皆が移り変わり、世のうねりでしかなく、うねりの形としての我は在り、全体として自他はない。

人間は諸々を形成し、これに形を与えたに過ぎない。

故に人間の認知は多くの作為に塗れているのだ、と私は解いた。

私は諸々の根源を観て、それを「神」と俗称した。

それすら、正しい覚知ではない。

本来それは言葉で表せない。

言うなれば、想像出来ないものを「神」と称したに過ぎない。

語り得ぬものを語ることは出来ず、ただ沈黙する他ない。

私はそれの一欠片、砂粒一つ程を説こうと言葉を尽くしたに過ぎない。

私達の中に「神」は在り、また外に「神」は在るのだと、私はこの様な視点に立って観た。