心と言葉と肉体
あらゆる作為的な事象について思惟を巡らせ、私はこの様に事柄を観た。
心によってあらゆる事柄は生起原因を持つ。
心に依らずして生じた事柄は存在しない。
言葉によってあらゆる事柄は形成される。
言葉に依らずして形成された事柄は存在しない。
肉体によってあらゆる事柄は生じる。
肉体に依らずして生じた事柄は存在しない。
心に依って起こり、言葉に依って形成され、肉体に依って生じる。
あらゆる作為的な事象は正しく形成されたものである。
それは在るものではなく起こされたものである、と私は観た。
恰も、湖面に石を落として小さな波を起こすようなものである。
波は人間が作為的に石を落とさずとも多くの物理的現象によって生じる様に、湖面に石を落とすことは恣意的、作為的な行いである。
それは恣意的、作為的な干渉であって、風が吹き草花が揺れる様な自然の干渉ではない。
風は草花を揺らすために吹くのではない様に、自然の現象とは仕組み、法則として生じるものである。
この様に事柄を観たならば、人間が生じさせる諸々の事柄は極めて作為的であると解するだろう。
そうした作為的な事柄が如何にして生じるに至るかは既に説いた通りである。
第一に、心の働きがある。
意思や願望等の諸々の精神的活動によって、人間はその心に様々な働きを起こさせる。
それが人間にとって善であれ悪であれ、そうした諸々の働きが作為的な事象の第一生起原因としてある。
心の働きに依らずして作為的な事象が生じることはない。
あらゆる作為的な事象は心に基づき、心によって成る。
第二に、言葉の働きがある。
あらゆる心の精神的活動は、言葉によって形成される。
言葉に依らずして、心の精神的活動は明確な方向性を有し得ない。
言葉に依らないならば、心の精神的活動は正しく無闇矢鱈となるであろう。
言葉は心を定め、言葉によって心は形を獲得するに至る。
最後に、肉体の働きがある。
あらゆる精神的活動は言葉によって方向性を持ち、肉体の活動によって生じる。
肉体の活動に依らずして、言葉によって形成された精神的活動は実態を獲得し難い。
肉体に依らないならば、心の精神的活動によって波紋を生じさせることは難しい。
これは、自他に区別あり、干渉の最たるものが接触であるが故に、である。
この様に事柄を観たならば、あらゆる作為的な事象が心によって起こり、言葉によって形成され、肉体によって生じることを解するだろう。
これらが、作為的、恣意的な諸々の事柄の生じる要因である。
これは不自然な事象である。
この場合の「不自然」とは、概念的、現象的観点において、仕組みとして、法則としての「不自然さ」である、と留意しなくてはならない。
人間の作為性、恣意性とはこの様に捉えることが出来る、と私は観た。
そうした諸形成されて生じた作為的、恣意的な諸々の事柄に人間は捕らわれ、それ故に苦しむ。
自らの心が、言葉が、肉体が、自らを縛り、自我を形作る。
それによって自我は成り、しかしそれによって不自由となる。
この様に諸々が形成と観たならば、自らの苦しみは在るものではなく、自ら形成したものなのだと解して、それを取り除くように努めなくてはならない。
それは自らの内的要因と内的要因によって成る。
内的要因とは、此れは此れである、という自らの縛りである。
それは価値観や常識とも称される。
外的要因とは、自らを縛る外的な事象である。
それは、針の上に裸足で立つことは痛み以外の何物でもないように、それによって自らを縛り、または痛みを伴う事象である。
内的要因に依るならば、これを取り除くように務めるべきである。
外的要因に依るならば、それに触れないように務めるべきである。
この様に諸々の形成を観て、安らぎに帰ろうとする人は努めなくてはならない、と私は観た。