妄言録

日々あれこれ考えたことをまとめたりしようかな、と思い始めました。

勝利

「勝利」とは何を指すのであろうか。

敵を打ち倒すことであるだろうか。

自らの利益を勝ち取ることであるだろうか。

自身の考えを主張しきることであるだろうか。

或いは、単に負けないことであるだろうか。

これらは勝利の因子を持ちはしても「勝利」そのものではない、と私は解く。

何者によっても貶められず、何によっても汚されず、あらゆる事物に左右されず、あらゆる物事に取って代わられることのない至上の「勝利」がある。

これは自我に打ち勝つ勝利である。

この「勝利」こそ、全く完全なる勝利である、と私は説こう。

人間は諸々多くの事柄に囚われている。

人間が語るところの勝利において、常に敵が在る。

敵に打ち勝った、敵に負けなかった、敵に奪われなかった、と勝利の対極に敗北があり、常に争う対象となる存在があった。

しかし、そうであるが故に、人間は勝利する為に常に敵を必要としてきた。

敵対したから勝利した、ならばまだ道理も通うだろう。

だが時に人間は勝利する為に敵を定めた。

逆順の思考は仮想敵を生み出し、時に過去の事柄すら持ち出して敵を作り続けてきた。

人間が団結することは容易い。

共通の敵を生み出せば、人間はそれで団結出来る。

だがそれは酷く奇形と言わざるを得ない。

人間は上を向くために下を定めるように、敵を探し、自身の立場を定めるために他者を必要としてきた。

それらは実に作為的である。

そのような不自然な奇形を、多くの人間は突然の様に作り続けている。

だが、それが行き着くところは自滅である。

敵を定めねば勝利出来ず、また団結出来ないならば、今の敵を討ち滅ぼした後、新たな敵を求める。

それは当初、外側に求めるだろうが、いつか外側に敵が望めなくなった後に、自らの内に敵を探し始めるであろう。

そうして自ら自らの体を食い尽くし、勝利を渇望する自我によって自身を滅ぼす。

恰も、癌細胞が宿主の体を蝕み、挙げ句自滅するようなものである。

それらは果たして勝利と呼べるものであるだろうか。

真に「勝利」と呼べるものがあるとするならば、それはそうした勝利という甘美を求め、快楽を希求し、安易に外に敵を求める自我に打ち勝つことをおいて他にないであろう。

自らの快の為に他を犠牲にし、安易に外に原因を求め、外側を打倒することで恰も何かをしたかのように錯覚して得る充実感に酔いしれようとする自我を抑制し、よく慎み、自らの快を求めないこと。

自我という本能に支配されず、明確な自己を定めて揺るぎないこと。

これこそが真に至高なる「勝利」である。

この「勝利」を修めたものは精神が安立し、決して他に敵を求めない。

敵を求めないのだから諸々の人間が言うところの敗北をすることもない。

常に自己に打ち勝ち、精神に揺るぎなく、安直した彼の者に勝るものはない。

常に自己を整える彼の者は、自我に振り回されることがない至上の勝利者である。

私は「勝利」とはこの様なものである、と説いた。

故に、真なる「勝利」を納めようとする者は、この様に「勝利」を観て、自己を慎み、己に打ち勝て。