妄言録

日々あれこれ考えたことをまとめたりしようかな、と思い始めました。

価値と意味

私は価値を問う。

私は意味を問う。

あらゆる一切において、生得的な価値、或いは意味を有するものが、果たして存在しうるだろうか。

世において、人間は諸々の事柄に価値と意味とを説いてきた。

命や生存、欲求等の様々な事柄の意味と価値は勿論、世俗においては人間や金銭、物質等の様々な事物の意味と価値とを人間は説いてきた。

それらは語る者共の主観に寄り、様々な形態と系統とで語られ、単一的なものは存在せず、どの形態、系統を選択するか、といった在り方にて世に広く流布された。

それらは真に多岐にわたり、同一の系統にあっても枝葉では異なる様相を見せている。

しかし、語るまでもなく、それは根本において、明確な意味と価値とを人間は知らない、ということでもある。

私は、あらゆるものは等価である、と解く。

それは、あらゆるものに意味はなく、また価値はないのだ、ということである。

意味も価値もなく、全ては等しく無価値無意味である、と私は解いた。

故に、意味と価値とは与えるものである、と私は解く。

根底において、生得的な価値、或いは意味を持ちうるものなど在りはしない。

無論、あらゆる生命生物の生起において、生態系はある。

だがそれは機能であって、意味や価値ではない。

恰も、歯車同士が噛み合って回ることはあっても、それ自体ではなんの意味も価値もないようなものである。

歯車を噛み合わせれば回るか、しかし、それだけでは何の意味もない様に。

仕組みとしての機能はあれ、それは仕組みでしかなく、意味と価値ではない。

地震が生じ、それによって火山が噴火し、それによって山の木々は流され燃え、それによって上昇気流が生じて雨雲が発生し、雨が日を消し、古い土壌を押し流して新しい生態系の土壌を作る、とする。

それは世界の仕組みである。

だが、そこに意味や価値はない。

それを新たな土壌作成の一工程として意味だと語ることも出来るだろう。

地震や火山の噴火に、新たな土壌を生み出す価値があると語ることも、やはり出来るだろう。

だが、地震にしろ噴火にしろ雨にしろ、それらは世界機能でこそあれ、意味や価値を持って生じるものではない。

意味と価値とは、正しく与えられるものである。

この意味と価値とは、役割だとも言える。

例えば、野球で用いられるバットは球を打つための意味を持って作られたものであるが、しかしそれすら、悲しいことに、異なった用途で使われることがあるように。

例えば、武器であるメイスは鎧の上から敵を打ち潰すことを意図した作られているが、その原型に司教杖という争いとは何ら関係ない道具があるように。

意味や価値、役割は不変的ではない。

それは時々の時流、或いは流行、常識や用途によって変化し、一定ではない。

仮に生得的な価値や意味を有するものがあったならば、それは本来、それ以上が意味や価値を有することはないだろう。

これは、同時に数多の可能性でもある。

あらゆるものが一定でない以上、多くの傍流が生じうる。

それは社会において、様々な彩りとなるだろう。

それを彩りと捉えるか、乱雑さと捉えるかは、また別の問題ではあるが。

それは恰も、草花生い茂る大樹の枝葉が拡がり、その雄大さを人間に感じさせるようなものである。

この様に事柄を観て、私はあらゆるものには根本的に価値、或いは意味はなく、全ては等しく無意味無価値の上で等価であり、故に多くの拡がりが生じ得る余地があるのだと、私は解いた。

如何なる生き方、在り方であれ、その道を自ら選び、それを育てることこそが自らの道を形成する行程である、と私は観る。

この様に事柄を観るならば、決して自らの道をのみ過信せず、また他の道を否定することなく、自らの道の価値と他者の道の価値が相反したとしてもそれに固着することなく、自ら選んだ道をよく見て、自らの足で歩むことが出来るであろう。