生きるということ
生きるということは如何なることか。
心臓が動いていることをいうのか。
生命活動が継続していることをいうのか。
生きている実感を持つことをいうのか。
これらについてよく考えて観るに、生きるということは行動である、と私は解した。
世にあって、生きている実感があるならば、そこには自らの実存が在り、それを実感させうる行動がある。
行動の伴うことなく、生きるということの実感を得ることは難しい。
諸々の生存において、人間は生きているだけに等しい。
息を吸い、食物を食み、眠りにつく。
そうした、ただ生存しているだけ、という状態にある人間が散見される。
このように語るならば、多く反感を生ずる人間がいるであろう。
故に、私は問う。
汝ら、自らの足で立ち、自らを寄る辺とし、自らを灯明として生きているのか。
何人にも流されず、他人を寄る辺とせず生きているのか。
人の中にあって、自らの意思で立ち、自らを寄る辺とし、自らを灯明として生きることは難しい。
人の中にあって、他者に流され、他人を寄る辺として生きることは容易い。
これらは、自らの意思に則り自らの価値を自ら勝ち取る生き方か、自らの意思を削り取られ自らの価値を浪費する生き方か、と言い換えることも出来る。
私達は皆、世界の流れの一部である。
それぞれが一つの波であり、その時々において生じた現象である。
しかし、波は海にあっても波として在るように、諸々の流れは完全なる調和の内に在り、その何れかがなければ成立し得ない。
恰も、荘厳なる楽曲の中で一つ一つの楽器が自らを主張しながらも、一つ欠けるだけで楽曲が成立しなくなる様なものである。
人の営みもまた同様である。
各々が自らの務めを果たし、自ら正しく生きるならば、それは正しく大いなる流れの体現であるだろう。
しかし、諸々の人間の営みを見るに、調和は崩れ、各々が好き勝手に振る舞っている。
これは如何なる由縁に依るものか。
これらは、人間の我欲に依って生じている。
即ち、執著である。
これは我がものである、として本来持ち得ぬものに拘泥し、自らの身を重くし、歩みの枷を自ら作り上げる。
恰も、壮麗なる装飾を華美に着飾ったことによって自らを重くし、歩くことが必要以上に苦しくなる様なものである。
或いは、いざ家を追われ逃げる時に自らの逃げ足を鈍くする様なものである。
こうした執著に囚われている人間は、周囲の人にとっても重しとなる。
恰も、壮麗なる装飾を華美に着飾った者を運ぶ馬車の馬が、荷重に依って力を発揮出来ない様なものである。
執著に囚われた人間は自らの本懐たる務めを果たせない。
あれもこれも、と求める為である。
本懐たる務めを果たすものは、真なる意思に則り、その意思の実現に専心する。
手を広げ抱え込めぬ量を持とうとする者は、自らの本懐たる務めを見失う。
そうした者は、自らの真なる意思に則り、その意思の実現に専心する者をも阻害する。
彼らは粘り気のある泥沼か、或いは蜘蛛の糸の様に絡みつき、絡みついた人の足取りを重くする。
故に、自らの真なる意思に則り、自ら本懐たる務めを果たそうとする人は、執著に囚われた人間から離れるように務めるべきだろう。
真に共通の視座を持ち、共通の目的意思を持つ人と関わることは楽しい。
そうでなく、自らの価値をのみ押し付け、自らの価値を受容するように強いてくる人間と関わることは苦しい。
自らの意思に則り本懐たる務めを果たそうとする人は、独り立ち、己が務めに専心すべきである。
そして、自らの務めを果たそうとすることを妨げる人間とは関わるべきではない。
そして、もし真に共通の視座を持ち、共通の目的意思を持つ人と出会えたならば、それに歓喜し、馴れ合うことなく、共に道の続く限り歩め。
この様に生きることは、人間の中にあって辛く、厳しく、苦しい。
反して、人間の中にあって周囲に迎合しながら生きることは心地良い。
去れど、私は前者の様に生きることこそが「生きる」ということであるとした。
前者は行動としての「生きる」ということである。
後者は状態としての「生きる」ということである。
各々が良しとする生き方を模索し、己が意思で生きるべきである。
私は前者を「生きる」ということとした。
しかし、そうでない生き方もまた悪ではない。
故に、各々が自らの生き方を模索し、自らの意思に則り、自らの道を拓け。
だが、他者の道を阻むことも妨げることもするな。
道は一つではないのだから。
己が持ち得る領分を知り、己が「生きる」道を歩め。