勝利
「勝利」とは何を指すのであろうか。
敵を打ち倒すことであるだろうか。
自らの利益を勝ち取ることであるだろうか。
自身の考えを主張しきることであるだろうか。
或いは、単に負けないことであるだろうか。
これらは勝利の因子を持ちはしても「勝利」そのものではない、と私は解く。
何者によっても貶められず、何によっても汚されず、あらゆる事物に左右されず、あらゆる物事に取って代わられることのない至上の「勝利」がある。
これは自我に打ち勝つ勝利である。
この「勝利」こそ、全く完全なる勝利である、と私は説こう。
人間は諸々多くの事柄に囚われている。
人間が語るところの勝利において、常に敵が在る。
敵に打ち勝った、敵に負けなかった、敵に奪われなかった、と勝利の対極に敗北があり、常に争う対象となる存在があった。
しかし、そうであるが故に、人間は勝利する為に常に敵を必要としてきた。
敵対したから勝利した、ならばまだ道理も通うだろう。
だが時に人間は勝利する為に敵を定めた。
逆順の思考は仮想敵を生み出し、時に過去の事柄すら持ち出して敵を作り続けてきた。
人間が団結することは容易い。
共通の敵を生み出せば、人間はそれで団結出来る。
だがそれは酷く奇形と言わざるを得ない。
人間は上を向くために下を定めるように、敵を探し、自身の立場を定めるために他者を必要としてきた。
それらは実に作為的である。
そのような不自然な奇形を、多くの人間は突然の様に作り続けている。
だが、それが行き着くところは自滅である。
敵を定めねば勝利出来ず、また団結出来ないならば、今の敵を討ち滅ぼした後、新たな敵を求める。
それは当初、外側に求めるだろうが、いつか外側に敵が望めなくなった後に、自らの内に敵を探し始めるであろう。
そうして自ら自らの体を食い尽くし、勝利を渇望する自我によって自身を滅ぼす。
恰も、癌細胞が宿主の体を蝕み、挙げ句自滅するようなものである。
それらは果たして勝利と呼べるものであるだろうか。
真に「勝利」と呼べるものがあるとするならば、それはそうした勝利という甘美を求め、快楽を希求し、安易に外に敵を求める自我に打ち勝つことをおいて他にないであろう。
自らの快の為に他を犠牲にし、安易に外に原因を求め、外側を打倒することで恰も何かをしたかのように錯覚して得る充実感に酔いしれようとする自我を抑制し、よく慎み、自らの快を求めないこと。
自我という本能に支配されず、明確な自己を定めて揺るぎないこと。
これこそが真に至高なる「勝利」である。
この「勝利」を修めたものは精神が安立し、決して他に敵を求めない。
敵を求めないのだから諸々の人間が言うところの敗北をすることもない。
常に自己に打ち勝ち、精神に揺るぎなく、安直した彼の者に勝るものはない。
常に自己を整える彼の者は、自我に振り回されることがない至上の勝利者である。
私は「勝利」とはこの様なものである、と説いた。
故に、真なる「勝利」を納めようとする者は、この様に「勝利」を観て、自己を慎み、己に打ち勝て。
生きるということ
生きるということは如何なることか。
心臓が動いていることをいうのか。
生命活動が継続していることをいうのか。
生きている実感を持つことをいうのか。
これらについてよく考えて観るに、生きるということは行動である、と私は解した。
世にあって、生きている実感があるならば、そこには自らの実存が在り、それを実感させうる行動がある。
行動の伴うことなく、生きるということの実感を得ることは難しい。
諸々の生存において、人間は生きているだけに等しい。
息を吸い、食物を食み、眠りにつく。
そうした、ただ生存しているだけ、という状態にある人間が散見される。
このように語るならば、多く反感を生ずる人間がいるであろう。
故に、私は問う。
汝ら、自らの足で立ち、自らを寄る辺とし、自らを灯明として生きているのか。
何人にも流されず、他人を寄る辺とせず生きているのか。
人の中にあって、自らの意思で立ち、自らを寄る辺とし、自らを灯明として生きることは難しい。
人の中にあって、他者に流され、他人を寄る辺として生きることは容易い。
これらは、自らの意思に則り自らの価値を自ら勝ち取る生き方か、自らの意思を削り取られ自らの価値を浪費する生き方か、と言い換えることも出来る。
私達は皆、世界の流れの一部である。
それぞれが一つの波であり、その時々において生じた現象である。
しかし、波は海にあっても波として在るように、諸々の流れは完全なる調和の内に在り、その何れかがなければ成立し得ない。
恰も、荘厳なる楽曲の中で一つ一つの楽器が自らを主張しながらも、一つ欠けるだけで楽曲が成立しなくなる様なものである。
人の営みもまた同様である。
各々が自らの務めを果たし、自ら正しく生きるならば、それは正しく大いなる流れの体現であるだろう。
しかし、諸々の人間の営みを見るに、調和は崩れ、各々が好き勝手に振る舞っている。
これは如何なる由縁に依るものか。
これらは、人間の我欲に依って生じている。
即ち、執著である。
これは我がものである、として本来持ち得ぬものに拘泥し、自らの身を重くし、歩みの枷を自ら作り上げる。
恰も、壮麗なる装飾を華美に着飾ったことによって自らを重くし、歩くことが必要以上に苦しくなる様なものである。
或いは、いざ家を追われ逃げる時に自らの逃げ足を鈍くする様なものである。
こうした執著に囚われている人間は、周囲の人にとっても重しとなる。
恰も、壮麗なる装飾を華美に着飾った者を運ぶ馬車の馬が、荷重に依って力を発揮出来ない様なものである。
執著に囚われた人間は自らの本懐たる務めを果たせない。
あれもこれも、と求める為である。
本懐たる務めを果たすものは、真なる意思に則り、その意思の実現に専心する。
手を広げ抱え込めぬ量を持とうとする者は、自らの本懐たる務めを見失う。
そうした者は、自らの真なる意思に則り、その意思の実現に専心する者をも阻害する。
彼らは粘り気のある泥沼か、或いは蜘蛛の糸の様に絡みつき、絡みついた人の足取りを重くする。
故に、自らの真なる意思に則り、自ら本懐たる務めを果たそうとする人は、執著に囚われた人間から離れるように務めるべきだろう。
真に共通の視座を持ち、共通の目的意思を持つ人と関わることは楽しい。
そうでなく、自らの価値をのみ押し付け、自らの価値を受容するように強いてくる人間と関わることは苦しい。
自らの意思に則り本懐たる務めを果たそうとする人は、独り立ち、己が務めに専心すべきである。
そして、自らの務めを果たそうとすることを妨げる人間とは関わるべきではない。
そして、もし真に共通の視座を持ち、共通の目的意思を持つ人と出会えたならば、それに歓喜し、馴れ合うことなく、共に道の続く限り歩め。
この様に生きることは、人間の中にあって辛く、厳しく、苦しい。
反して、人間の中にあって周囲に迎合しながら生きることは心地良い。
去れど、私は前者の様に生きることこそが「生きる」ということであるとした。
前者は行動としての「生きる」ということである。
後者は状態としての「生きる」ということである。
各々が良しとする生き方を模索し、己が意思で生きるべきである。
私は前者を「生きる」ということとした。
しかし、そうでない生き方もまた悪ではない。
故に、各々が自らの生き方を模索し、自らの意思に則り、自らの道を拓け。
だが、他者の道を阻むことも妨げることもするな。
道は一つではないのだから。
己が持ち得る領分を知り、己が「生きる」道を歩め。
心と言葉と肉体
あらゆる作為的な事象について思惟を巡らせ、私はこの様に事柄を観た。
心によってあらゆる事柄は生起原因を持つ。
心に依らずして生じた事柄は存在しない。
言葉によってあらゆる事柄は形成される。
言葉に依らずして形成された事柄は存在しない。
肉体によってあらゆる事柄は生じる。
肉体に依らずして生じた事柄は存在しない。
心に依って起こり、言葉に依って形成され、肉体に依って生じる。
あらゆる作為的な事象は正しく形成されたものである。
それは在るものではなく起こされたものである、と私は観た。
恰も、湖面に石を落として小さな波を起こすようなものである。
波は人間が作為的に石を落とさずとも多くの物理的現象によって生じる様に、湖面に石を落とすことは恣意的、作為的な行いである。
それは恣意的、作為的な干渉であって、風が吹き草花が揺れる様な自然の干渉ではない。
風は草花を揺らすために吹くのではない様に、自然の現象とは仕組み、法則として生じるものである。
この様に事柄を観たならば、人間が生じさせる諸々の事柄は極めて作為的であると解するだろう。
そうした作為的な事柄が如何にして生じるに至るかは既に説いた通りである。
第一に、心の働きがある。
意思や願望等の諸々の精神的活動によって、人間はその心に様々な働きを起こさせる。
それが人間にとって善であれ悪であれ、そうした諸々の働きが作為的な事象の第一生起原因としてある。
心の働きに依らずして作為的な事象が生じることはない。
あらゆる作為的な事象は心に基づき、心によって成る。
第二に、言葉の働きがある。
あらゆる心の精神的活動は、言葉によって形成される。
言葉に依らずして、心の精神的活動は明確な方向性を有し得ない。
言葉に依らないならば、心の精神的活動は正しく無闇矢鱈となるであろう。
言葉は心を定め、言葉によって心は形を獲得するに至る。
最後に、肉体の働きがある。
あらゆる精神的活動は言葉によって方向性を持ち、肉体の活動によって生じる。
肉体の活動に依らずして、言葉によって形成された精神的活動は実態を獲得し難い。
肉体に依らないならば、心の精神的活動によって波紋を生じさせることは難しい。
これは、自他に区別あり、干渉の最たるものが接触であるが故に、である。
この様に事柄を観たならば、あらゆる作為的な事象が心によって起こり、言葉によって形成され、肉体によって生じることを解するだろう。
これらが、作為的、恣意的な諸々の事柄の生じる要因である。
これは不自然な事象である。
この場合の「不自然」とは、概念的、現象的観点において、仕組みとして、法則としての「不自然さ」である、と留意しなくてはならない。
人間の作為性、恣意性とはこの様に捉えることが出来る、と私は観た。
そうした諸形成されて生じた作為的、恣意的な諸々の事柄に人間は捕らわれ、それ故に苦しむ。
自らの心が、言葉が、肉体が、自らを縛り、自我を形作る。
それによって自我は成り、しかしそれによって不自由となる。
この様に諸々が形成と観たならば、自らの苦しみは在るものではなく、自ら形成したものなのだと解して、それを取り除くように努めなくてはならない。
それは自らの内的要因と内的要因によって成る。
内的要因とは、此れは此れである、という自らの縛りである。
それは価値観や常識とも称される。
外的要因とは、自らを縛る外的な事象である。
それは、針の上に裸足で立つことは痛み以外の何物でもないように、それによって自らを縛り、または痛みを伴う事象である。
内的要因に依るならば、これを取り除くように務めるべきである。
外的要因に依るならば、それに触れないように務めるべきである。
この様に諸々の形成を観て、安らぎに帰ろうとする人は努めなくてはならない、と私は観た。
神なるもの
あらゆる一切の現象、観念、事物を観よ。
あらゆる移り変わりを観て、人間はそこに神なるものを見るのだろう。
しかし、神は此処にいる、というものではなく、また其処にいる、というものではない。
そもそも、人間のいうところの神というような存在は実存の観測すら儘ならない。
正しく、見ずに信じる対象であるのだろう。
或いは、人間に似せた形を与え、その形態に嵌め込んでいるだけに過ぎない。
或いは、それが有するとされる力、意味を象徴的にかけ合わせた偶像に過ぎない。
それらは形態の有無を問わず、その様に望まれて形を取ったものでしかない。
だが、これすら正確ではない。
人間の語る神々とは言うなれば観念である。
ある観念を神として言葉と像と意味とで型に嵌め込んだものでしかない。
そういう意味では、人間の言うところの神は存在しないと言えるだろう。
だが、それは確かに存在性として存在している。
人間が世界を捉えるようにその存在性を世界に、つまりは社会に、自らの内に有する人間において神は存在性として存在している。
それは自らの内に在り、内より生じた存在性である。
種は外から蒔かれたものである場合があるが、芽吹かせたのは自身である。
そうした芽を共有する人間の間にあって、それは絡み合う蔓のように交わり合い、一つの世界を形成する。
必ずしも、それが同一足り得ぬのに、恰も同一であるように相互が思い込む。
そうして絡み合う蔓は大きな塊となり、気が付けばそれが蔓ではなく木であるように見える。
その形は、恰も変化しない、絶対的なもののように見えるだろう。
だが、元が蔓であるそれらは時流の中で構成要素を替え、同じであったことなどない。
恰も、昨日見た雲と似た雲を見たとしても、それは同一の雲ではないように。
絶えず形を変え続けているとは
それらは恰も生じた様に見え、また時流の中で消えた様に見える。
だが、それらは元より生じていない。
また、それらは滅びたことすらない。
それらは大きなうねりである。
或いは、移り変わりである。
生じてすらおらず、滅びることのないそれは、世にあって諸々の形成のうねりでしかない。
人間の観点で言うならば、興亡の様に見える。
だが、それらは大きなうねりの中で形を変えているに過ぎない。
恰も、海で波が生じようと海には何ら変わりがないように。
古き神々も最新の神々も、そうした世界のうねりの中で見せる形態でしかなく、それらは確かに一つのうねりとして形を持って見せることもあるが、根本において同一である。
同一のうねりが様々な名で語られることもある。
或いは、同一のうねりが異なる観点から見て相反しているように見えることがある。
この様に諸々の神仏を観たならば、それらが生じておらず、また滅びてすらいないことの意味を知るだろう。
そうして、人間が神と呼ぶ存在性は此処にいるでもなく、其処にいるでもないことを知る。
それらは存在性として存在する存在であり、何処にでもいて、何処にもいないのだと知る。
こうして、人間の語る神々はこの様に在る、と私は観る。
そうして諸々の事象を観て、私は根底に在るものを神と称した。
されど、私の語る神は存在性ですらなく、定形を持たず、何処にも在り、何処にも在らない存在である。
即ち、世界である。
より正確に言うならば、想像力の外側すら含んだ界である。
諸々の土台となる界。
人間の語る世界は地球という星であり、その地球が太陽系の一つで、その太陽系すら銀河系の一つでしかなく、それら全てを内包した宇宙という塊の土台となる界。
在るということが在るこの界も、無いということが在る界も、無いということすら無い界も、大きな界の内に在るだけでしかない。
過去、無限の智慧を蓄えた仏を虚空蔵と称したように、正しく虚空と称すのが相応しい無際限、無間。
認知の外という意味での虚空が在る。
あらゆるはただ内に在る。
恰も、虚数の中に実数があるようなものである。
身の回りの諸々の事象を観るがいい。
人間の足がついている、不動に思える大地の中を。
大地を有する星の運行を。
天を観るがいい。
其処に星の運行と星の息吹を感じるだろう。
地を観るがいい。
其処に星の脈動と星の息吹を感じるだろう。
私達は何処にも単立出来てはいない。
常に変動し続けている。
意識及ばぬ想像力の外側でも多くが変動する。
意識及ぶ想像力の内側ですら多くが変動する。
そうした根源。
生じず、滅びず、汚れず、清らかにならず、増えもせず、減りもせぬ、根源のうねり、移り変わり。
形態の変化でしかなく、形成の変化でしかない。
私達も含め、只の移り変わりといううねりでしかない。
私はこれを「神」と称した。
或いは「宇宙」。
或いは「真理」。
或いは「全」。
或いは「無」。
或いは「一」。
或いは「多」。
或いは「個」。
或いは「群」。
それは私達自身でもある。
皆が移り変わり、世のうねりでしかなく、うねりの形としての我は在り、全体として自他はない。
人間は諸々を形成し、これに形を与えたに過ぎない。
故に人間の認知は多くの作為に塗れているのだ、と私は解いた。
私は諸々の根源を観て、それを「神」と俗称した。
それすら、正しい覚知ではない。
本来それは言葉で表せない。
言うなれば、想像出来ないものを「神」と称したに過ぎない。
語り得ぬものを語ることは出来ず、ただ沈黙する他ない。
私はそれの一欠片、砂粒一つ程を説こうと言葉を尽くしたに過ぎない。
私達の中に「神」は在り、また外に「神」は在るのだと、私はこの様な視点に立って観た。
価値と意味
私は価値を問う。
私は意味を問う。
あらゆる一切において、生得的な価値、或いは意味を有するものが、果たして存在しうるだろうか。
世において、人間は諸々の事柄に価値と意味とを説いてきた。
命や生存、欲求等の様々な事柄の意味と価値は勿論、世俗においては人間や金銭、物質等の様々な事物の意味と価値とを人間は説いてきた。
それらは語る者共の主観に寄り、様々な形態と系統とで語られ、単一的なものは存在せず、どの形態、系統を選択するか、といった在り方にて世に広く流布された。
それらは真に多岐にわたり、同一の系統にあっても枝葉では異なる様相を見せている。
しかし、語るまでもなく、それは根本において、明確な意味と価値とを人間は知らない、ということでもある。
私は、あらゆるものは等価である、と解く。
それは、あらゆるものに意味はなく、また価値はないのだ、ということである。
意味も価値もなく、全ては等しく無価値無意味である、と私は解いた。
故に、意味と価値とは与えるものである、と私は解く。
根底において、生得的な価値、或いは意味を持ちうるものなど在りはしない。
無論、あらゆる生命生物の生起において、生態系はある。
だがそれは機能であって、意味や価値ではない。
恰も、歯車同士が噛み合って回ることはあっても、それ自体ではなんの意味も価値もないようなものである。
歯車を噛み合わせれば回るか、しかし、それだけでは何の意味もない様に。
仕組みとしての機能はあれ、それは仕組みでしかなく、意味と価値ではない。
地震が生じ、それによって火山が噴火し、それによって山の木々は流され燃え、それによって上昇気流が生じて雨雲が発生し、雨が日を消し、古い土壌を押し流して新しい生態系の土壌を作る、とする。
それは世界の仕組みである。
だが、そこに意味や価値はない。
それを新たな土壌作成の一工程として意味だと語ることも出来るだろう。
地震や火山の噴火に、新たな土壌を生み出す価値があると語ることも、やはり出来るだろう。
だが、地震にしろ噴火にしろ雨にしろ、それらは世界機能でこそあれ、意味や価値を持って生じるものではない。
意味と価値とは、正しく与えられるものである。
この意味と価値とは、役割だとも言える。
例えば、野球で用いられるバットは球を打つための意味を持って作られたものであるが、しかしそれすら、悲しいことに、異なった用途で使われることがあるように。
例えば、武器であるメイスは鎧の上から敵を打ち潰すことを意図した作られているが、その原型に司教杖という争いとは何ら関係ない道具があるように。
意味や価値、役割は不変的ではない。
それは時々の時流、或いは流行、常識や用途によって変化し、一定ではない。
仮に生得的な価値や意味を有するものがあったならば、それは本来、それ以上が意味や価値を有することはないだろう。
これは、同時に数多の可能性でもある。
あらゆるものが一定でない以上、多くの傍流が生じうる。
それは社会において、様々な彩りとなるだろう。
それを彩りと捉えるか、乱雑さと捉えるかは、また別の問題ではあるが。
それは恰も、草花生い茂る大樹の枝葉が拡がり、その雄大さを人間に感じさせるようなものである。
この様に事柄を観て、私はあらゆるものには根本的に価値、或いは意味はなく、全ては等しく無意味無価値の上で等価であり、故に多くの拡がりが生じ得る余地があるのだと、私は解いた。
如何なる生き方、在り方であれ、その道を自ら選び、それを育てることこそが自らの道を形成する行程である、と私は観る。
この様に事柄を観るならば、決して自らの道をのみ過信せず、また他の道を否定することなく、自らの道の価値と他者の道の価値が相反したとしてもそれに固着することなく、自ら選んだ道をよく見て、自らの足で歩むことが出来るであろう。
罪と罰
罪とは何か。
罰とは何か。
広く世に善悪の区別あり、伴い法がある。
多くの衆生、属する集団、組織、国は異なれど、等しく法はあり、伴い罪を定め、伴い罰を定めた。
それらは集団生活を維持し、秩序を定める為である。
秩序なき集団は烏合の衆であり、皆異なる方向を見ている。
故に皆は秩序を定め、これを維持する為に秩序を乱す罪を定め、これを裁く罰を定めた。
であるならば、罰とは罪を裁く実効であるのだろうか。
であるならば、罪とは集団生活を維持する為の戒めなのだろうか。
しかし、衆生を観るに、皆がそれぞれの善悪で価値を判断し、自らの裁量で罰を与えんとする者が見られる。
罪が法に依るものであるならば、法に定めのない、衆生にとり悪である事柄は罪とは呼べまい。
伴い、それを裁く罰もまたありはすまい。
だが、世を観るに、必ずしもそうではない。
法では裁けぬ悪を裁く、という物語はよくよく世で語られる。
ある種の人々はそれらを見て、痛快なる気分になるらしい。
それは言うなれば、世に対する不平不満とに起因する、と私は観る。
世にあって道理の叶わぬ事柄が多くあり、小賢しく立ち回り罪とならぬ悪行によって利得を得る者がある。
必ずしも、ただ正しく生きる者が報われる訳ではない。
寧ろそうした者は、面白みがない、だとか言われることもあるだろう。
逆に、例えば普段荒々しく無法者に見られる者が行う善行は大きく評価されることがある。
恰も、それがその人間の本質であるかのように。
善人には善人であることを期待し、悪人には悪人であることを期待する人間がある。
同時に、悪人の行った善行一つで他人が抱く印象が変わることもあれば、善行が行った慎ましい悪行で抱かれる印象が大きく変わることもある。
真に身勝手な話だと、私は観る。
誰であれ、如何なる行いをも成しうる。
一般に善行と言われることも、悪行と言われることも、誰であれ行うことが出来る。
行う当事者が世で善人と称される者であれ、悪人と称される者であれ、あらゆる行いは皆の中にある。
誰ものが何もかもを成しうるのだと、私は観る。
故に、世にあって諸々の善人と悪人とに区別はなく、人を観るならば正しく行いによって観るべきであり、過去に何をしたとしても、今行った行為に基づいて観るのが純粋な知覚である、と私は説こう。
同時に、それに依って他者を評してはならない。
それに拘泥したならば、先にあって他者の行う行いを正しく観ることは能わないだろう。
それは恰も、色眼鏡で世界を見ている様なものである。
こうした諸々の観点で世を観るならば、世に善悪の区別はない様に見える。
世にあるのは衆生に取り、許容出来ることと出来ないこと、との区別である。
或いは、納得出来ることと理不尽とすることとの区別である。
であるならば、さて世にあって罪と罰とは何か。
明確な善悪はなく、法的な罪と罰ではなく、衆生にとっての罪と罰とは何か。
裁かれるものが罪なのか。
裁かれないならば罪ではないのか。
そうではない、と私は解く。
罪は罰によって裁かれることでどうなるというのか。
裁かれたならば、罪は許されるのか。
世にあって罰とは、そうした許しの意味があるだろう。
だが、罪が無くなる訳ではない。
罪滅し、という言葉があるが、罪は滅びることがない。
恰も、天秤の秤の傾きに対し、反対側に同量の重しを置いてバランスを取ったところで、両の秤にある重しが無くなる訳ではないように。
罪は罪として残る。
であるならば、罰が罪を取り除くことはない。
罰は罪の対極足り得ない。
故に、私はこの様に解く。
罪を罪とも思わぬことこそ罪なのです。
それは恰も、自らの行いを顧みれていない様なものである。
真に罪を自覚したならば、それは極めて大きな罰となる。
それは、自らの行いを完全に顧みて、言い訳の余地なく、自らを苛む。
その苦しみこそが罰である、と私は解く。
罰は外から与えられるものではなく、自らの内より来るもの。
罪を背負い、何処にも誰にも僅かたりとも押付けず、その重みを受け入れる。
それ以上の罰はない、と私は観る。
そうした罪を背負い、罰を受け続けたならば、その行いは正しく慎ましくなるだろう。
罪に対して罰があるならば、罰を受けたなら罪はない、と思い込む。
そうでなく、罪を受け入れ、自らを罰する。
これを自省という。
罪とは罰であり、罪を罪とも思わぬことこそが最大の罪なのだと観て、道を歩まんとするものは諸々の行為を顧みて慎まなくてはならない。
苦しみ
この世界には多くの苦しみがある。
衆生は皆苦しみの輪廻に在る。
それらの生起原因を観るに、執着こそがその根本原因であると私は解く。
不快という苦しみの生起原因とは何か。
快楽を求める心である、と私は観る。
絶望という苦しみの生起原因とは何か。
希望を求める心である、と私は観る。
死という苦しみの生起原因とは何か。
生まれてきたことである、と私は観る。
快楽を求めるが故に、諸々の人間は不快を得る。
快楽を求めぬ者には、もはや不快など存在し得ない。
希望を求めるが故に、諸々の人間は絶望を得る。
希望を求めぬ者には、もはや絶望など存在し得ない。
生まれてきたが故に、諸々の生物は死に至る。
生まれなかった者には、もはや死など訪れることはない。
この様に事柄を観たならば、諸々の苦しみは諸々を求める心によって生じていることが観える。
多くを希求する心こそ執着である。
執着とは渇きに似ている。
喉の渇きに苦しむ者が水を求めるように、人間は自らの欠落ばかりを見て穴を埋めようと埋めるものを求める。
足るを知らず、穴を埋めることに執心し、故に求める。
だが、あらゆるものは変動し、移り変わり、一定ではない。
雲が流れ、形を変え続けるように。
同じ日が一日として無いように。
全ては変化し続ける。
この様に事柄を観て、諸々に対する執着は決して満たされることなどないのだと知るならば、努めて執着を取り除かなくてはならない。
快楽に執着し求め続けたところで常に快楽に耽ることは出来ず、故に快楽がない時に不快に囚われる。
希望に執着し求め続けたところで常に希望通りになることはなく、故に希望が叶わぬことに絶望する。
生きることに執心し求め続けたところで生き続けることは出来ず、故に何れ来る死を嘆く。
諸々の執着を取り除いた者は、そうした苦しみに囚われない。
恰も、身に纏わりつく蜘蛛の糸が全て取り除かれた様に、苦しみは消え去る。
或いは、身に纏う華美な装飾を取り外して身軽になるようなものである。
この様に事柄を観て、諸々の執着を取り除くことこそが苦しみの生起原因を取り除く専心である、と私は観る。
諸々の執着で身近なものでは以下のものが挙げられる。
自尊心と渇愛、常識、快楽、所有物、資産、他人、それらと諸々の肉体に伴う欲求である。
これらを慎み、一時的に持つことはあってもそれを所有することなく、自然に身を任せることこそ肝要である、と私は観る。