罪と罰
罪とは何か。
罰とは何か。
広く世に善悪の区別あり、伴い法がある。
多くの衆生、属する集団、組織、国は異なれど、等しく法はあり、伴い罪を定め、伴い罰を定めた。
それらは集団生活を維持し、秩序を定める為である。
秩序なき集団は烏合の衆であり、皆異なる方向を見ている。
故に皆は秩序を定め、これを維持する為に秩序を乱す罪を定め、これを裁く罰を定めた。
であるならば、罰とは罪を裁く実効であるのだろうか。
であるならば、罪とは集団生活を維持する為の戒めなのだろうか。
しかし、衆生を観るに、皆がそれぞれの善悪で価値を判断し、自らの裁量で罰を与えんとする者が見られる。
罪が法に依るものであるならば、法に定めのない、衆生にとり悪である事柄は罪とは呼べまい。
伴い、それを裁く罰もまたありはすまい。
だが、世を観るに、必ずしもそうではない。
法では裁けぬ悪を裁く、という物語はよくよく世で語られる。
ある種の人々はそれらを見て、痛快なる気分になるらしい。
それは言うなれば、世に対する不平不満とに起因する、と私は観る。
世にあって道理の叶わぬ事柄が多くあり、小賢しく立ち回り罪とならぬ悪行によって利得を得る者がある。
必ずしも、ただ正しく生きる者が報われる訳ではない。
寧ろそうした者は、面白みがない、だとか言われることもあるだろう。
逆に、例えば普段荒々しく無法者に見られる者が行う善行は大きく評価されることがある。
恰も、それがその人間の本質であるかのように。
善人には善人であることを期待し、悪人には悪人であることを期待する人間がある。
同時に、悪人の行った善行一つで他人が抱く印象が変わることもあれば、善行が行った慎ましい悪行で抱かれる印象が大きく変わることもある。
真に身勝手な話だと、私は観る。
誰であれ、如何なる行いをも成しうる。
一般に善行と言われることも、悪行と言われることも、誰であれ行うことが出来る。
行う当事者が世で善人と称される者であれ、悪人と称される者であれ、あらゆる行いは皆の中にある。
誰ものが何もかもを成しうるのだと、私は観る。
故に、世にあって諸々の善人と悪人とに区別はなく、人を観るならば正しく行いによって観るべきであり、過去に何をしたとしても、今行った行為に基づいて観るのが純粋な知覚である、と私は説こう。
同時に、それに依って他者を評してはならない。
それに拘泥したならば、先にあって他者の行う行いを正しく観ることは能わないだろう。
それは恰も、色眼鏡で世界を見ている様なものである。
こうした諸々の観点で世を観るならば、世に善悪の区別はない様に見える。
世にあるのは衆生に取り、許容出来ることと出来ないこと、との区別である。
或いは、納得出来ることと理不尽とすることとの区別である。
であるならば、さて世にあって罪と罰とは何か。
明確な善悪はなく、法的な罪と罰ではなく、衆生にとっての罪と罰とは何か。
裁かれるものが罪なのか。
裁かれないならば罪ではないのか。
そうではない、と私は解く。
罪は罰によって裁かれることでどうなるというのか。
裁かれたならば、罪は許されるのか。
世にあって罰とは、そうした許しの意味があるだろう。
だが、罪が無くなる訳ではない。
罪滅し、という言葉があるが、罪は滅びることがない。
恰も、天秤の秤の傾きに対し、反対側に同量の重しを置いてバランスを取ったところで、両の秤にある重しが無くなる訳ではないように。
罪は罪として残る。
であるならば、罰が罪を取り除くことはない。
罰は罪の対極足り得ない。
故に、私はこの様に解く。
罪を罪とも思わぬことこそ罪なのです。
それは恰も、自らの行いを顧みれていない様なものである。
真に罪を自覚したならば、それは極めて大きな罰となる。
それは、自らの行いを完全に顧みて、言い訳の余地なく、自らを苛む。
その苦しみこそが罰である、と私は解く。
罰は外から与えられるものではなく、自らの内より来るもの。
罪を背負い、何処にも誰にも僅かたりとも押付けず、その重みを受け入れる。
それ以上の罰はない、と私は観る。
そうした罪を背負い、罰を受け続けたならば、その行いは正しく慎ましくなるだろう。
罪に対して罰があるならば、罰を受けたなら罪はない、と思い込む。
そうでなく、罪を受け入れ、自らを罰する。
これを自省という。
罪とは罰であり、罪を罪とも思わぬことこそが最大の罪なのだと観て、道を歩まんとするものは諸々の行為を顧みて慎まなくてはならない。