妄言録

日々あれこれ考えたことをまとめたりしようかな、と思い始めました。

自他

他者の中に自らを観るように。
自らの中に他者を観る。
自らの他者への立ち居振舞いに、他者から自らへとされる立ち居振舞いを観る。
自らの行いを、他者を通して省みる。
おおよそ、自らの行いを客観視することは難しい。
無意味な行いを意図して行う人間がいないように、行いを行う当人にとり、その行いには意味があり、それが自然なことのように思われる。
故に、自らの行いが誰かを意図せず危害したとしても、それを理解することは不可能に近く、相手方の反応から問題を類推する他ない。
仮に明確に何が問題だったかを説かれたとしても、それは全く実体験としての理解には程遠く、それは知識、類推による理解であり、全く完全なる理解には程遠い。
だが、時に自らの行いを通して、自らがしてきた行いの結果を理解しうる時がある。
自らがしてきたことを、他者からされて、つまりは自分が意図せず危害してきた相手方の立場に立ってみて、初めて理解する。
それは奇妙な感覚であった。
自らと他者は全く異なるのだと明確に理解しながら、自らと他者の類似性を観る。
異なるのに同一であると感じる。
それは言葉にすることが不可能な領域でありながら言葉にする努力なくして理解するに能わない領域である。
語らず沈黙を持って語り得ぬと語り、同時に多弁を労して語らんとする意気を生じさせる。
自他境界はなく、しかし自他の区別だけはある。
自らに降りかかる諸々の障害が、自らが他者に降りかからせていた行いなのだと観て、因果応報なのではないかと観る。
だが、それは果たして真なるかを考えれば、そこに作為性を観ることが出来る。
物事には原因と結果があるだけで、それは極めて自然な順序であると観る。
そこに作為性はなく、無作為であり、ただの事実として生じるだけだと観る。
それでもそこに因果応報を観るのは、作為性を観ざるを得ない。
事物の結果は無作為であり、しかしそこに作為的な見解を形成する。
と観ると同時に、その形成すらある種自然な、無作為な思考方向があると感じる。
因果応報と観ることは作為的であると同時に、その様に観る主体にとりそれは無作為的でもある。
そうして一切は形成されたもので、作為性も無作為性もまた根本では同じであると観る。
自他境界はなく、しかし自他区別だけがある。
自らの行いを他者からの行いから改めて省みる様に、自ら発した行いの結果と、その結果を自らに受けた結果との2つの観点で私は私の行いを観た。
それは実に素晴らしい実体験であり、自らをよくよく省みるに足らしめた。
そうして、一切は形成であり、作為と無作為、自と他との間に本来違いはなく、それらの形成土壌はあらゆるを内包した空であると観るに至った。
諸々は異ならず、しかし区別が形成され、それらの形成は空より生じる。
無は無として在り、在らざるものではない。
一切の言葉に表せぬ混濁とした矛盾が矛盾としてではなく一切の合一性を有していると観て、私は自らの行いをよくよく省みる。
一切は空より形成されたものであるとしても、自他の区別はあり、根本では同一ながら、しかし形成構造の異なりが区別となる。
全く異なるものながら完全なる類似性を内包している。
完全なる類似性を持ちながら全く異なる外観を有している。
その区別を通して己が行いを省みるならば、言葉に表しきれぬこの実感を実体験として理解するに至るであろう。
それはさながら、鏡に映る鏡像を観るように、己が裏側を観る行為である。
自らの内を観るならば、内を形成した外的要素を観ることになるように。
自らの外を観るならば、外を認識する内的要素を観ることになるように。
己が裏側を観ることになるであろう。
自らの主観により歪む自らの像を、他者を通してその裏側、歪みがないがゆえに自らには歪んで見える実像を観る。
他者からの行いに自らの行いを観て、これを省みることは水鏡に映る自身の鏡像を観るようであり、その実体験は水鏡に波紋を立てれば自らと周囲との区別が曖昧になりながらも確かな区別が残留し続けるようなものである。
よくよく、自らの主観に基づいて歪む自らの像を、他者からの行いから自らの行いを省みて自らはただの被害者ではなく加害者でもあったのだと知るように、自ら正すように努めなくてはならない。