無一文の教え
何かを持つという事は苦しみの縁起である。
それは自ら手に入れる、ということだけでなく、他者から受け取ることもまた同様である。
これは正確には、所有する、ということである。
何かを所有したならば、人間はそれに失わないようにと執着し、それを損なうことによって苦しむ。
また、他者から与えられた、贈られたものにしても、それを受け取ったならば、贈った人間を思い、その思いを無下に出来ないとして、そうした意思に囚われて苦しむ。
何も持たないならば、それは損なわれることがないが故に苦しまない。
何も受け取らないならば、それに愛着を持つことがない故に苦しまない。
自ら何かを持とうとするにせよ、他者から何かを贈られるにせよ、そうした物体への執着は苦しみの縁起である。
物体は損なわれる。
形あるものは何れ滅びる。
この様にあらゆる事物を観て、安寧を望む者は何物も所有してはいけない。
また、もし自らの行いで何かを持つことがあったとしても、それは何れ無くなるものだからと正しく観て、それを大切にこそすれ、それを所有することなく、執着してはならない。
執着しないことと雑に扱うこととは異なるように。
物を一時的に持つことはあっても、それを所有という自らの一部とせず、何れ無くなるものとして観て、それが損なわれるにせよ、他者の手に渡るにせよ、それらを事物の成り行きと観て、執着してはならない。
もし手に入れて執着してしまうなら所有するべきではない。
もし贈り物を受け取ってそこに相手の意思を見て囚われるならば、そもそも受け取るべきではない。
この様に事柄を観て、無一文の教えを実践することが精神の安寧の道となるであろう。
己が命ですら、ただ持つだけで所有出来ないのだと正しく理解したならば、これを道理として観ることが能うであろう。
また、もし意思を持ってそれを損なわせようとする者が出てきたならば、正しくそれを守れ。
水は落ちることによって石に穴を開けることはあっても、水は高所から低所に向かうからこそ落ちるだけである。
穴を開けようとして落ちるのではない。
この様な流れこそ意思と意図のない自然の成り行きである。
これに反して、意図を持って損なわせようとする意思があるならば、これによって損なわないように努めるべきである。
その結果損なわれたとしても、そこに執着がないなら苦しまない。
これは、自らの命を守りながらも執着していない、というようなものと同一である。
また、この諸々の意思は善悪を問わないことに留意すべきである。
悪意は知り易く、気付けたならば避けることも能う。
だが善意によって損なわれる時、これは知り難い。
善意にせよ悪意にせよ、意思と意図とによって何かを損ないうるならば、それを守るように努めるべきである。
そして守り難いならば、そうした善意とも悪意とも離れた場所に自らの身を置くべきである。
だが、世俗にあって諸々の善意悪意は身近であり、避け難い。
事物に執着せず、それを自然の成り行きに任せ、しかし意思と意図による干渉からは守る。
守ることは執着としての守りではない。
それはあらゆる事物、物事を捻じ曲げんとする意思作用から曲がらぬよう守ることである。
これは、草花が自然に芽吹き自然に枯れゆくのは道理であっても、芽吹いている時に踏み躙らせてはならないようなことと同一である。
こうした諸々を鑑みて、無一文の教えを実践することが安寧の道となるであろう。