妄言録

日々あれこれ考えたことをまとめたりしようかな、と思い始めました。

原因と結果と選択と

因果応報という観念を観るに、原因に応じた結果が生じるという意味に観える。
これは全く自然なる順序によって生じるものである。
だが、これをより詳しく観るならば、厳密にはそうではないと観ることとなる。
ある結果には必ずそれを生じさせた原因がある。
これは極めて自然な順序である。
だが、ある原因から必ずある結果が生じると言うわけではない。
原因とは結果にとっての必要条件ではあるが、結果に至る十分条件ではない。
この様に観るならば、全く道理に叶って観える。
この不可逆的関係の根本とは行動、或いは意思であり、総じて論ずるならば選択である。
結果には常に原因があり、しかし原因から結果を生じさせるには選択が必要となる。
例え話をしよう。
ある誰かが手に銃を持ち、異なる誰かに突き付けている。
弾丸は籠められ、安全装置は外れており、銃自体に何の支障はなく、また射手には何ら引き金を引く妨げになる障害はない。

また相手は身動きは取れず、身に弾丸を防ぐ手立てはない。
正しく、撃ち殺されるに足る十分条件は過不足なく揃っている。
では、その誰かが撃ち殺されたとする。
撃ち殺されて死んだ、その原因は何か。
射手にあるのだろうか。
或いは、撃ち殺された誰かにあるのだろうか。
答えは否である。
撃ち殺されて死んだ原因とは過不足なく撃ち殺される状態にあったことである。
それでしかなく、それ以上ではない。
人間に原因を求めることは出来るだろう。
だがそれは動機的な原因であって、撃ち殺されて死んだ原因ではない。
それは、何故撃とうと意思したのか、或いは何故撃たれたのか、という撃つことを意思した原因でしかない。
撃たれて死んだ。
何故か。
撃たれたら死ぬ状態にあったからだ。
例えば防弾服を着ていたなら、或いは死ななかったかもしれない。
撃たれた原因と撃たれて死んだ原因とは根本的に異なる原因であり、対比する必要すらない。
空手と柔道、どちらが優れているのかを比べる程度に下らない比較だ。
異なるものを異なるものとして比較するのはおおよそ無意味だ。
何かを比較対照するならば、単一の尺度を用いてしかありえない。
この様に、結果にとって原因は必要条件であるが、原因はそれ自体では結果の十分条件とはなりえない。
この充分条件を満たした上で選択をしなくてならない。
選択、行動の選択、意思の選択、思想の選択、多くの選択がある。
これはあまりに多く、あまりに日常に偏在するが故に在り来たりなものとされている。
ある意味で、軽視されている。
だが、選択は決して軽んじられるものではない。
それは原因から結果へと移行する為の必要十分条件である。
それなくして、あらゆる原因は意味を生じない。
何れだけの原因、条件を整えたところで、選択という初動、始まりがなければ結果には辿り着かない。
動かないものは停止しているだけである。
結果に対して原因があるからこそ、原因が結果の十分条件だと誤った見解に囚われる。
常に選択であり、選択によってその原因は結果の十分条件足りうる。
故に、あらゆるを成すにあたり、選択という初動を軽んじてはならない。
また、選択とは日々の中に偏在しているのだと忘れてはならない。
常に選択は在り、それは長い期間を要する場合継続的にし続けなくてはならないものである。
故に、全く完全なる自然な順序を紡ぐ因果を欲するならば、全く完全なる原因、条件を整え、適した選択、行動を実行しなくてはならない。
それはしばしば、妥協されることがあるが、妥協によって生じる結果は妥協に足る結果でしかなく、全く完全なる自然な順序ではなく妥協された結果にしかなりえない。
そうした全く完全なる自然な順序に基づくならば、それはそれを既に正しく成し遂げた者から学ぶことが素早い方法となるだろう。
何故ならば、それは既に順序に則った結果に至った方法であるからである。
故に、よく先達に学び、先達より先へと目指すことこそが肝要である。
ただの模倣では中身がない。
その順序を身に付けて初めて、それを正しく扱うことが出来る。
また、順序を身に付けたなら、より自然な順序を見付けるために探求しなくてはならない。
それがないならば、それ以上の順序、全く完全なる自然な順序に至ることはないだろう。
それは時に魔境であり、既存の順序にあった無駄を知ることに繋がり、時に順序の破壊者のようになるかもしれない。
そうであっても、先を目指すならば歩まなくてはならない。
それもまた選択である。
もしそれによって周囲を加害したくないならば、汝は独り探求の道を歩むことになるだろう。
だが真に同じ道を歩もうとする同胞があるならば、それを喜び、しかし心乱すことなく、同胞と共に、馴れ合うことなく、その歩みは全く個人のものであると理解した上で、共に歩むことになるだろう。

自他

他者の中に自らを観るように。
自らの中に他者を観る。
自らの他者への立ち居振舞いに、他者から自らへとされる立ち居振舞いを観る。
自らの行いを、他者を通して省みる。
おおよそ、自らの行いを客観視することは難しい。
無意味な行いを意図して行う人間がいないように、行いを行う当人にとり、その行いには意味があり、それが自然なことのように思われる。
故に、自らの行いが誰かを意図せず危害したとしても、それを理解することは不可能に近く、相手方の反応から問題を類推する他ない。
仮に明確に何が問題だったかを説かれたとしても、それは全く実体験としての理解には程遠く、それは知識、類推による理解であり、全く完全なる理解には程遠い。
だが、時に自らの行いを通して、自らがしてきた行いの結果を理解しうる時がある。
自らがしてきたことを、他者からされて、つまりは自分が意図せず危害してきた相手方の立場に立ってみて、初めて理解する。
それは奇妙な感覚であった。
自らと他者は全く異なるのだと明確に理解しながら、自らと他者の類似性を観る。
異なるのに同一であると感じる。
それは言葉にすることが不可能な領域でありながら言葉にする努力なくして理解するに能わない領域である。
語らず沈黙を持って語り得ぬと語り、同時に多弁を労して語らんとする意気を生じさせる。
自他境界はなく、しかし自他の区別だけはある。
自らに降りかかる諸々の障害が、自らが他者に降りかからせていた行いなのだと観て、因果応報なのではないかと観る。
だが、それは果たして真なるかを考えれば、そこに作為性を観ることが出来る。
物事には原因と結果があるだけで、それは極めて自然な順序であると観る。
そこに作為性はなく、無作為であり、ただの事実として生じるだけだと観る。
それでもそこに因果応報を観るのは、作為性を観ざるを得ない。
事物の結果は無作為であり、しかしそこに作為的な見解を形成する。
と観ると同時に、その形成すらある種自然な、無作為な思考方向があると感じる。
因果応報と観ることは作為的であると同時に、その様に観る主体にとりそれは無作為的でもある。
そうして一切は形成されたもので、作為性も無作為性もまた根本では同じであると観る。
自他境界はなく、しかし自他区別だけがある。
自らの行いを他者からの行いから改めて省みる様に、自ら発した行いの結果と、その結果を自らに受けた結果との2つの観点で私は私の行いを観た。
それは実に素晴らしい実体験であり、自らをよくよく省みるに足らしめた。
そうして、一切は形成であり、作為と無作為、自と他との間に本来違いはなく、それらの形成土壌はあらゆるを内包した空であると観るに至った。
諸々は異ならず、しかし区別が形成され、それらの形成は空より生じる。
無は無として在り、在らざるものではない。
一切の言葉に表せぬ混濁とした矛盾が矛盾としてではなく一切の合一性を有していると観て、私は自らの行いをよくよく省みる。
一切は空より形成されたものであるとしても、自他の区別はあり、根本では同一ながら、しかし形成構造の異なりが区別となる。
全く異なるものながら完全なる類似性を内包している。
完全なる類似性を持ちながら全く異なる外観を有している。
その区別を通して己が行いを省みるならば、言葉に表しきれぬこの実感を実体験として理解するに至るであろう。
それはさながら、鏡に映る鏡像を観るように、己が裏側を観る行為である。
自らの内を観るならば、内を形成した外的要素を観ることになるように。
自らの外を観るならば、外を認識する内的要素を観ることになるように。
己が裏側を観ることになるであろう。
自らの主観により歪む自らの像を、他者を通してその裏側、歪みがないがゆえに自らには歪んで見える実像を観る。
他者からの行いに自らの行いを観て、これを省みることは水鏡に映る自身の鏡像を観るようであり、その実体験は水鏡に波紋を立てれば自らと周囲との区別が曖昧になりながらも確かな区別が残留し続けるようなものである。
よくよく、自らの主観に基づいて歪む自らの像を、他者からの行いから自らの行いを省みて自らはただの被害者ではなく加害者でもあったのだと知るように、自ら正すように努めなくてはならない。

 

無一文の教え

何かを持つという事は苦しみの縁起である。

それは自ら手に入れる、ということだけでなく、他者から受け取ることもまた同様である。

これは正確には、所有する、ということである。

何かを所有したならば、人間はそれに失わないようにと執着し、それを損なうことによって苦しむ。

また、他者から与えられた、贈られたものにしても、それを受け取ったならば、贈った人間を思い、その思いを無下に出来ないとして、そうした意思に囚われて苦しむ。

何も持たないならば、それは損なわれることがないが故に苦しまない。

何も受け取らないならば、それに愛着を持つことがない故に苦しまない。

自ら何かを持とうとするにせよ、他者から何かを贈られるにせよ、そうした物体への執着は苦しみの縁起である。

物体は損なわれる。

形あるものは何れ滅びる。

この様にあらゆる事物を観て、安寧を望む者は何物も所有してはいけない。

また、もし自らの行いで何かを持つことがあったとしても、それは何れ無くなるものだからと正しく観て、それを大切にこそすれ、それを所有することなく、執着してはならない。

執着しないことと雑に扱うこととは異なるように。

物を一時的に持つことはあっても、それを所有という自らの一部とせず、何れ無くなるものとして観て、それが損なわれるにせよ、他者の手に渡るにせよ、それらを事物の成り行きと観て、執着してはならない。

もし手に入れて執着してしまうなら所有するべきではない。

もし贈り物を受け取ってそこに相手の意思を見て囚われるならば、そもそも受け取るべきではない。

この様に事柄を観て、無一文の教えを実践することが精神の安寧の道となるであろう。

己が命ですら、ただ持つだけで所有出来ないのだと正しく理解したならば、これを道理として観ることが能うであろう。

 

また、もし意思を持ってそれを損なわせようとする者が出てきたならば、正しくそれを守れ。

水は落ちることによって石に穴を開けることはあっても、水は高所から低所に向かうからこそ落ちるだけである。

穴を開けようとして落ちるのではない。

この様な流れこそ意思と意図のない自然の成り行きである。

これに反して、意図を持って損なわせようとする意思があるならば、これによって損なわないように努めるべきである。

その結果損なわれたとしても、そこに執着がないなら苦しまない。

これは、自らの命を守りながらも執着していない、というようなものと同一である。

 

また、この諸々の意思は善悪を問わないことに留意すべきである。

悪意は知り易く、気付けたならば避けることも能う。

だが善意によって損なわれる時、これは知り難い。

善意にせよ悪意にせよ、意思と意図とによって何かを損ないうるならば、それを守るように努めるべきである。

そして守り難いならば、そうした善意とも悪意とも離れた場所に自らの身を置くべきである。

だが、世俗にあって諸々の善意悪意は身近であり、避け難い。

 

事物に執着せず、それを自然の成り行きに任せ、しかし意思と意図による干渉からは守る。

守ることは執着としての守りではない。

それはあらゆる事物、物事を捻じ曲げんとする意思作用から曲がらぬよう守ることである。

これは、草花が自然に芽吹き自然に枯れゆくのは道理であっても、芽吹いている時に踏み躙らせてはならないようなことと同一である。

 

こうした諸々を鑑みて、無一文の教えを実践することが安寧の道となるであろう。